歩くど・・・
奥州街道とは、江戸時代に整備された五街道の一つである。
正式には奥州道中といい、道中奉行の管轄では江戸日本橋を起点として千住から
陸奥白川(福島県白河市)までの27宿、
そのうち宇都宮(栃木県宇都宮市)までは日光街道を通り17宿を共有する。
実際に奥州を通る街道もふくめた街道の総称として用いられることが多い。
この脇街道とは陸奥白川から仙台までの仙台道、
仙台から蝦夷筥館(はこだて)(北海道函館市)までの松前道であり、
勘定奉行や沿道の諸藩の管理下におかれた。
すなわち日光街道との分岐点である宇都宮から白川までと、
仙台道、および松前道のうち本州北端の三厩宿(青森県東津軽郡外ヶ浜町)までの
112余宿を指すことが多い。
今回の挑戦は お江戸日本橋から・・再びの日光街道を歩いて
宇都宮から奥州街道に行きます。
今回も、gooogleマップと
人力(旧街道ウオーキング)さんを参考に歩きます・
日光街道は2010/2/13.初めて旅人になり
2010/5/6.東照宮に参拝が出来ました。
以後、御成り街道
中山道
甲州街道
伊勢街道
東海道(京街道)
成田街道
大山道
鎌倉街道「下の道」
再びの日光街道から奥州街道に
2014/12/28.
旅人の始まりです、この日鎌倉街道「下の道」
日本橋止まり・
気分も新たに 奥州街道旅立ちです・
日光街道は以前に旅人でした、割合と記憶に残っていた、
本日は越谷宿で終了です
日本橋から千住宿~草加宿~越谷宿 26.0k
日本橋から・・ 千住宿 8.9k
宿場のご案内 &説明 させていただきます。
尚。説明文の借用は・フリー百科事典「ウィキベディア」
ユーミの旅と旅行・ 旅人・浮浪雲殿 参考いさせて頂きました。
千住宿・・ 草加宿まで 9.2k
勝専寺の寺伝によれば、1927年に新井図書政次が、荒川で漁の時網に千手観音像
お拾い、この地を千手と読んだことに由来する、
千住宿・・千住大橋から始まり現在の荒川放水路までが千住宿、現在も街道が残る街
寛永二年(1625.)東照宮建設により日光道中最初の宿場町として栄えた。
千住宿はやっちゃ場「市場」があり、人口も多く
日光・奥州街道のほかにも・水戸街道・佐倉道・下妻道・大師道
交通の要所でした。
松尾芭蕉の奥の細道の出発点であり、見送りの門弟たちと別れを
「行く春や 鳥啼き 魚の眼に泪」と読んだ・・
練馬の大根・目黒の筍・尾久の牛蒡・千住の葱
今でも有名ですよ・・
草加宿・・ 越谷宿まで 6.2k
草加市役所。から神明町信号までぐらいといわれている
宿場は結構賑わっていたようです、
本陣一軒・脇本陣一軒・旅籠六七軒
千住から越谷間は沼地が多いため迂回道路を利用、
慶長11年地元の、大川図書さんが、湿地帯に葦(草)を束ねて敷いて土を
掛け、繰り返して越谷と千住を一直線の道をこしらえた、
当時千住と越谷の間には宿場がなかった、この道が完成すると
街道沿いに茶店、旅籠屋など、旅人相手の商いを行うようになり
寛永(1630.)千住宿に次いで2番目の宿ができた
大川図書さんのお墓もお参りしました。
名物」 草加せんべい
元々この一帯は稲作が盛んに行われており、
農家では蒸した米をつぶし丸めて干したものに塩をまぶし
間食として食していた、江戸期に入り、宿場が発展していくと
この、塩味が旅人に受け、商品として売り出される
のち、野田醤油の醤油で味付けるようになり
現在の、草加煎餅の元となる・
越谷宿・・ 粕壁宿まで 10.3k
埼玉県内の日光街道での最大の宿場街
日本橋から数えて三番目の宿場町
本陣一軒・ 脇本陣 二軒・ 旅籠 四十軒
徳川家康は鷹狩りでたびたび訪れている、休憩所のあつた場所は
現在でも 御殿町 町名に残ってる。
幕府の保護下に置かれ年貢米や商品の輸送大動脈・
綾瀬川・古利根川・元荒川・が流れ水運の地の利を生かし
栄えた街です
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